Yahoo! Auction - Item Information |
「源氏物語」常夏(とこなつ)の巻・源氏の君と明石の君の娘・明石の姫君が将来、天皇の后への夢を語る・大炊御門宗氏・自筆・茶道具12B |
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|||||||
京都の公卿・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵 自筆「源氏物語」の「常夏(とこなつ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。 原文は「源氏物語・常夏の巻」として美しく描かれている 自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。 したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。 大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。 関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示) 出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。 自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)??応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648??1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。 大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)??天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。 旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。 出品した「源氏物語」は常夏(とこなつ)の内容の要旨 「常夏の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第26帖。光源氏36歳の5月の話玉鬘十帖の第26帖。巻名は光源氏と玉鬘が常夏の花(撫子)を詠んだ和歌「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ」にちなむ。源氏の君36歳の夏の話。盛夏の六条院で、釣殿で涼んでいた源氏は夕霧を訪ねてきた内大臣家の子息たちに、最近新しく迎えられた落胤の姫君(近江の君)のことを尋ねる。夕霧と雲居の雁の仲を許さない不快も手伝って痛烈に皮肉った。内大臣と夕顔の君の姫君である玉鬘の姫君は、いつになったら実父・内大臣に会えるのか思い内大臣と源氏の君の間の板ばさみの玉鬘であった。一方、源氏の皮肉を聞いた内大臣も激怒。雲居の雁のところへ出向いたが、夏の暑い盛りに単を羽織ってうたた寝していた姿に「はしたない」と説教する。またあまりに姫君らしくない近江の君の処遇に思い悩む。そこで長女・弘徽殿女御の元に行儀見習いへ出すことを決めたが、女御へ贈られた文も和歌も支離滅裂な出来で、女房たちの失笑を買うのだった。 「常夏(とこなつ)」自筆原本の上部には、「養在深窓人未知」(養われて深窓に在あり 人いまだ識らず)という篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「良家の娘だから深窓の令嬢として育ったのでしょう」という意味である。この言葉は、「常夏」の巻の原文で「窓の内なるほどに従ひてゆかしく思うべかめるわざなれば」とある。一般にごく普通の男でさへ深窓の両家の娘には心をひかれるが身分の高い六条院の内にいる玉鬘の姫のことを世間では美しいと評判ですよと源氏の君が玉鬘の姫君に伝える場面である。玉鬘の姫君の美しさを中国の絶世の美女と称される楊貴妃をたとえた漢詩であることが「深窓」の文字からもくみとることができる。紫式部が「常夏」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細な理由は下記説明欄に記載 (自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。) 大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載 《「源氏物語」常夏(とこなつ)の巻》 「常夏」の巻は英文で「Wild Carnations」と表記されます。 《自筆上部の「常夏(とこなつ)」自筆原本の上部には、「養在深窓人未知」(養われて深窓に在あり 人いまだ識らず)という篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「良家の娘だから深窓の令嬢として育ったのでしょう」という意味である。この漢詩文の落款は、玄宗皇帝が楊貴妃を愛するあまりの漢詩として有名。 この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名一節です。》 (自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。) 「自筆原本」 自筆下二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。 自筆上部の「養在深窓人未知」(養われて深窓に在あり 人いまだ識らず)という篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「良家の娘だから深窓の令嬢として育ったのでしょう」という意味である。この漢詩文の落款は、玄宗皇帝が楊貴妃を愛するあまりの漢詩として有名。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名一節です。 《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》 自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜) 自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載 (1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。 《「源氏物語」常夏(とこなつ)の巻》 《「養在深窓人未知」(養われて深窓に在あり 人いまだ識らず)という篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「良家の娘だから深窓の令嬢として育ったのでしょう」という意味である。この漢詩文の落款は、玄宗皇帝が楊貴妃を愛するあまりの漢詩として有名。この漢詩は「白楽天の文集」に由来するものです。》 《御身のおほ(覚)え》・・・・ありさま(有様)に、 おもたゝしきはら(腹)に、むすめ(女)かしつきて、 けにきす(疵)なからん、と、思ひやりめてたきか 物し給はぬは、おほ(大)かた(方)子のすくな(少)くて、 心もとなきなめりかし。おとりはら(腹)なれと、 あかし(明石)のおもとのう(産)み出たるはしも、 さる世になきすくせ(宿世)にて、あるやうあらんと おほ(覚)ゆかし。そのいま(今)姫きみ(君)は、 ようせすは、しち(実)の御こ(子)にもあらしかし。 さすかにいとけしき(気色)ある所つきたま(給)へる人にて、 もてないたま(給)ふらん」と、い(言)ひおとし給ふ。 「さていかゝさた(定)めらるなる。みこ(親王)こそまつは しえ(得)たま(給)はん。もとよりと(取)り・・・・《わ(分)きて》 (文責・出品者) 「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。 《「源氏物語」常夏(とこなつ)の巻》 《六条院の釣殿の宴・源氏の君、高欄によりかかる》 《源氏の君・妻・紫の上に対する敬愛と玉鬘の姫君への思慕が交錯する》 《源氏の君と明石の君の娘・明石の姫君が将来、天皇の后への夢を語る》 《(内大臣・玉鬘の姫君の父)「その姫君(玉鬘の姫君)というのも きっとそれほどの人ではあるまい。もしひとかどの人だったら、 これまでにも噂にのぼっていただろうに。惜しいことに、 あれだけの大臣(源氏の君)が、何一つ難点もなくて、 今の世にはおさまりきれない》・・・・・・ご名声やお暮しぶりなのに、 れっきとした本妻のお腹(なか)に生れてたいせつに育て、いかにも これなら申し分もあるまいと察せられるような結構な姫君が いらっしゃらないのだからね。だいたいあの大臣は子供が少ないものだから、 心細くもなられるのだろうよ。劣り腹ではあるけれど、 明石の君が産んだ姫君(明石の姫君)は、それこそ ああしたまたとない幸運に恵まれた人だが、これにはなんぞ 子細があるのだろうと、気にもならずにはいられぬのだが。 先刻の話の今度の姫君(内大臣・玉鬘の姫君の父)は、ひょっとしたら 実の御子ではあるまいよ。とはいっても、あの大臣(源氏の君)は じつに一癖(ひとくせ)あるお方だから、ああした扱いをしておられるのだろう」 と、悪口をついていらっしゃる。 (内大臣・玉鬘の姫君の父)「ところで、その姫君(玉鬘の姫君)の 縁談はどうお決めになるのだろう。兵部卿宮がご自分のものになさるのだろうな。 もともと大臣(源氏の君)とは・・・・・《特別に御仲もいいし、 お人柄もご立派だから似合いの御間柄であろうよ」などとおっしゃる》 現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没) 備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。 《Wild Carnations (常夏)》 "Oh, yes, I am sure everyone is interested in her. But that is only because she is Genji's daughter. So it goes. I doubt that she is so very special, really. If she were he would have found her long before this. Yes, the great Genji, not a fleck of dust on his name and fame, much too good, everyone says, for our degenerate age. It seems a pity that his favorite lady, a perfect jewel, has no children. He must feel rather badly served. He seems to have ambitious plans for the little Akashi girl, even though her mother leaves something to be desired. Well, what will be will be. 英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没) 《常夏》 然而他家没有的人,而且室所生的也稀少, 未免太寂寞了。明石所生的女儿,母出身低微, 然而宿世福不浅,前程倒很大。至于所的那个, 也不是生女儿。位大臣竟是个脾气古怪的人, 可能干勾当。”他如此斥玉鬘。又: “但不知的事如何定。兵部卿王大可以到手的。 他和太政大臣交情特厚, 中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』 豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没) 左の写真が「源氏物語」常夏の巻の末尾(原本番号24-A)の押印。 写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀) 家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。 冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。 左上の篆書体は、「養在深窓人未知」(養われて深窓に在あり 人いまだ識らず)という篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「良家の娘だから深窓の令嬢として育ったのでしょう」という篆書印の内容です。 篆書体右の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款 右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行) (奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。) (出品した自筆の「断層画像写真」(常夏の巻)MRI 26―12B 自筆下二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款 「源氏物語」「常夏の巻」の資料 下記写真は、源氏の君とその子息・夕霧を訪ねた内大臣の子息たちが源氏の君と話しをかわす場面を描いております中央が源氏の君、その左が夕霧。そのほかが内大臣の子息たち。 上記絵巻は、源氏の君と話しをかわす内大臣の子息たち。 1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁) 2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。
不昧公 公卿 肉筆 保障 保証 真筆 真筆 親筆 古筆 本物保証 本物保障 室町 掛軸 掛け軸 自筆 天皇 茶道具 宗鑑 良寛 伝来 歌仙 極め 極札 極め札 鑑定 |